テーマ2 有明海の生態系調査・モニタリング

片野俊也、吉野健児、郡山益実、荒木啓輔、岩本優佳、伊藤祐二
山辺宏輔、速水祐一、手塚公裕、濱田孝治、日野剛徳

数値モデルの高精度化に必要な情報の提供、および、諫早湾潮受け堤防開門調査を前提とした生態系モニタリングをおこなっている。 以下に、今年度すすめた研究の概要について示す。


1.底泥中の栄養塩動態に関する研究

窒素やリンなどの栄養塩は、海域の生物生産を支える重要な要素である。底泥中の栄養塩動態と水柱へのフラックスは、ノリ養殖や海域植物プランクトン生産に大きな影響を与えている。栄養塩供給源としては、河川と底泥が主要である。有明海では、夏季の出水に伴って多くの栄養塩が供給されるが、冬季にも高い栄養塩が検出される。しかし、冬季には河川流量は少ないが、底泥からの供給量については、情報が限られている。また、諫早湾においては、特に調整池内の底泥における栄養塩の情報がほとんどなく、開門シミュレーションに必要なモデル構築において大きな課題となっている。
本研究では、このような背景に基づき、有明海奥部と諫早湾において、底泥の栄養塩動態を明らかにするべく調査を行っている。本年度の研究課題とその概要は次のとおりである。

(1)有明海奥部の砂場、泥場の底泥間隙水と海水の栄養塩濃度の季節変化

海水中の栄養塩濃度は、夏季に高く、春と秋に低い傾向にあった。また、調査期間(5-12月)を通じて、底泥が砂のほうが、泥よりも栄養塩濃度が低かった。特にアンモニアの違いは大きかった。泥場のほうが、有機物含量が大きく、そのため、アンモニアを中心として栄養塩が底泥から多く供給されていることが理由と考えられる。
間隙水中の栄養塩濃度は、海水中の栄養塩濃度の推移と5月を除けば、よく一致していた。5月には泥場、砂場ともに高い硝酸濃度(>9000μg / L)が検出されたが、原因は不明である。泥場の間隙水では、特に5000μg / L以上の7-9月に高いアンモニア濃度が検出されたのが特徴的で、これは、底泥が還元的であったため硝化が抑制され硝酸の還元が進行したためと考えられる。

(2)底泥からの栄養塩溶出速度の季節変化および海水中栄養塩濃度との関連

底泥―水柱間の栄養塩フラックスを推定するために、底泥と海水の栄養塩濃度勾配からの計算と底泥コアを使用した室内培養実験の両面から調査、検討を進めている。実測において、最もフラックスが大きいのはアンモニアであった。特に泥場の7-10月に底泥から海水へのフラックスが40mg / m2 / day以上となる高い値が検出された。これは、間隙水、海水のアンモニア濃度の推移とよく対応していた。また、硝酸に関しては、泥場において、7-9月は海水から底泥への取り込みが、10月以降は、底泥から海水への溶出が見られた。この結果も、海水中の硝酸濃度の増加とよく対応していた。これらの結果は、秋以降の海水の窒素動態において底泥が重要な役割を果たしていることを示唆している。また、濃度勾配と実測によるフラックスの比較から、リン、アンモニアについては、ほぼ良い相関関係が認められたが、硝酸は、濃度勾配からの見積りは常にほぼ0近くで、両者は全く一致が見られなかった。これは、硝酸は底泥においては速やかに還元されてしまうためで、濃度勾配による計算では硝酸のフラックスを見積もれないことを示している。

(3)底泥におけるアンモニア生成速度と底泥有機物量との関連

底泥のアンモニア生成速度を室内実験により見積もった。アンモニア生成速度は、砂場よりも泥場で高く、これは間隙水、海水のアンモニア濃度が、泥場で高いこととよく対応していた。泥場のアンモニア生成速度の季節変動は、7月から11月まで高かったが、9月のみ低かった。9月のみ低かったことを除けば、実測のアンモニアフラックスの季節変化と比較的よい対応が認められた。また、底泥有機物量の季節変化のデータからは、泥場の有機物は10~11月に高かった。砂場のアンモニア生成速度も有機物量の高い7月に最大を示していたことも考慮すると、アンモニア生成速度は、泥温、酸化還元電位の他に、基質となる有機物量に強く支配されていることが示唆された。

(4)諫早湾潮受け堤防内外の底泥間隙水中の栄養塩濃度

諫早湾潮受け堤防の開門調査が決定したが、開門に伴って、調整池内外で赤潮や貧酸素が発生する可能性を検討することは急務である。実際に開門された場合には、開門時の流速が大きくなって底泥が巻き上げられる状況が発生すれば、底泥間隙水中の栄養塩は、海水中に放出されることになる。従って、底泥中の栄養塩濃度の情報は不可欠である。本研究では、諫早湾潮受け堤防内外(諫早湾および調整池)における底泥間隙水と底泥に吸着しているアンモニア濃度を測定している。現地調査は2月に行い、調整池内5地点、諫早湾内8地点の合計13地点からの栄養塩用試料を得たところである。


2.ベントス(底生)生物群集に関する研究

広大な干潟を有する有明海では、有機物の分解過程や高次生物に対する餌資源としてベントス群集の果たす役割は大きい。また、タイラギやクマサルボウなど水産有用種が多く存在していた。しかし、近年は、ベントス群集の衰退(生物量の低下、多様性の消失)が著しい。これは、水産資源としての衰退だけでなく、プランクトンを主体とする有機懸濁物質の除去効果がベントス群集の衰退に伴って低下することにより間接的に赤潮が発生しやすい環境を生み出していると考えられていて、いわゆる有明海異変問題の一部として認識されている。ベントス群集が衰退している原因としては、夏季の貧酸素水塊形成と底質の有機化の二つが考えられているが、解明には至っていない。
このような背景のもと、次の3点について研究をすすめてきている。以下にそれらの概要を示す。なお、一連の研究を精力的にすすめている吉野健児特別研究員は、これまでの研究成果が高く評価され、日本ベントス学会若手奨励賞を受賞した。

(1)ベントス群集に対する貧酸素と底質有機化の影響評価

2006年に得られた貧酸素前5月と貧酸素後の8月のベントス群集データについて底質環境の変動を考慮した群集構造の変化に関する解析を行った。その結果、有機化と群集構造の変化とは関連が弱く、底質を考慮した上でも2つの月の間での種数、優占種の個体数変化や群集構造の地点間のばらつき増大などから貧酸素が原因とみられる影響が検出された。有機化の影響を分離して貧酸素の影響評価を試みた例は少なく、この成果は国際学術誌Hydrobiologiaに掲載された(Yoshino et al. 2010、参考資料)。

(2)貧酸素水塊形成とベントス群集の季節変動

貧酸素水塊がベントス群集に与える影響は、実際に、その貧酸素水塊形成前後でのベントス群集の変化を見ることが肝要である。そこで毎月の調査によって貧酸素水塊の発生、底質環境の変動のベントス群集への影響評価を進めている。これまでの結果によると、5~7月までは群集構造はほとんど変わらなかったが、2006年のデータと同様に、貧酸素水塊形成した7月以降、8月から急激に変化した。改めて、7月と8月の間でのベントス群集構造と底質環境との関連を解析したがその群集変動とは対応しないことが確認された。この結果は、本海域のベントス群集では底質環境よりも貧酸素が動態に大きく影響することを示唆している。つまり、貧酸素問題の解決は、かつての湾奥部の底性生態系を回復させるための重要な鍵の一つである。本研究成果は、国際学会、Advancing the science of limnology and oceanography (ASLO)において発表した。

(3)サルボウの底質環境に対する軟体部の形態応答

サルボウは、アサリとならんで、有明海における水産上重要な二枚貝である。サルボウは有明海奥部に生息しているが、有機物含量、巻き上がった懸濁物量が大きく異なる底泥が泥から砂まで比較的多様な環境に棲息している。これはアサリの生息場所が砂場に限られるのとは対照的である。本研究では、貝の軟体部のサイズを詳細に調べた。その結果、濁度の高い泥底に生息するサルボウは砂底に生息するサルボウに比べて唇弁と呼ばれる器官のサイズが有意に大きいことがわかった。唇弁は二枚貝が食物として鰓で取り込んだ懸濁粒子をサイズや質に応じて選別する器官であり、今回みられた濁度に応じた形態変異は適応的である。サルボウが広い環境に棲息できる理由として、その軟体部形態を柔軟に変えることで幅広い底質環境に対処できる能力を備えていることが考えられた。サルボウは、アサリに比べれば、底質環境変動に対して高い対応能力を持っていると言える。




3.植物プランクトンによる赤潮形成過程に関する研究

植物プランクトンは言うまでもなく海域の基礎生産を担っている。しかし、植物プランクトンが大増殖して赤潮を形成すると、その生産が高い効果を、魚類のへい死、ノリの色落ちなど悪い影響が打ち消してしまう。近年、有明海では、夏季にシャットネラ属やアカシオ属による赤潮が頻発している。しかし、そのブルーム発達過程については分からない部分が多く、短期予測さえ出来ていない。これまでに、次の2種類の植物プランクトンによる赤潮発達過程について調査研究をすすめている。

(1)Akashiwo sanguineaの野外における増殖速度の見積もりに関する研究

渦鞭毛藻Akashiwo sanguineaは、しばしば秋-冬にブルームを起こし、海域によってはノリの色落ちを引き起こすこともある。この種の野外における日周鉛直移動や増殖速度についての知見はほとんどない。我々の調査結果によれば、A. sanguineaの細胞は、昼に海面近くにと夜に水深4m近くに分布した。細胞分裂は、18時から0時にかけて起こった。この間、野外A. sanguineaの細胞数は1日に1.5倍程度に増えたことがわかった。本研究により、A. sanguineaは主に夜間に水深4m付近で細胞分裂を行なっていたことが明らかになった。本研究成果は、Plankton and Benthos Research誌に受理された(Katano et al. in press, 参考資料)。

(2)Chattonella marinaのブルーム発達過程に関する研究

赤潮発達過程について有明海固有の物理環境を考慮しながら明らかにすることを目的として野外調査を行っている。本年度も、ラフィド藻Chattonellaは、有明海湾奥西部海域にて7月初旬に最大細胞密度が4000 cells ml-1を超えるブルームを起こしたが、これは過去の記録にはない早い時期の赤潮発生であった。また、その発達も極めて急激であった。我々の調査定点では、1週間に1000倍に増加した。ただし、定点において増殖したのではなく、筑後川河口付近の個体群が降雨後の河川水流入に乗じて急速に分布を広げたものと考えられた。このような急激なブルーム発達は瀬戸内海でも報告があるが、短期間に起きるため、イベントを捉えることが難しく、まだその詳細な情報は限られている。有明海奥部におけるChattonellaブルームの短期予測のためには、筑後川からの出水を受ける海域での、現存量のモニタリングは重要である。
Chattonellaは、日周鉛直移動を行なう。これには、珪藻が利用できない下層の栄養塩を利用できる意義があると考えられている。しかし、我々の調査によって、栄養塩が豊富に存在していても日周鉛直移動を行なうことがわかった。すなわち、表面近くで栄養塩が枯渇した状況では日周鉛直移動によって下層の栄養塩を利用できるメリットを享受できることもあるが、栄養塩の濃度勾配を認知して鉛直移動しているわけではない。また、昼夜の分布水深についても、昼は水深0-0.5m、夜は4-6mであることも分かってきた。本年度はChattonellaのブルーム発生直後に降雨により大規模な出水が起きた。このとき海面は塩分10以下の低塩分水で覆われたが、Chattonellaは、この低塩分水を避け、下層の塩分が10以上の水深に分布した。その結果、海面では珪藻のブルームが発生した。これらの結果は、今後、数値モデルでの赤潮発達の再現にむけて重要な情報を与える。




4.観測タワーを利用した連続モニタリングによる海洋物理構造に関する研究

有明海の海況、気象をモニタリングするため、筑後川から分流した早津江川の澪筋の岸から3.5kmの地点に、自動観測タワーを設置し、2006年から連続観測を行なっている。水温、塩分、濁度、溶存酸素濃度、pH、クロロフィル蛍光強度については、水深0.5mごとに測定している。そのほか、水位および、0.5mごとの流向・流速も測定している。これらのデータは、諫早湾潮受け堤防開門調査が行われれば、開門前のデータとして極めて重要なものとなる。
本研究では、タワー近傍の物理構造の季節変化を詳細に記述することを目的として、取得したデータの解析を進めている。現在までに次のような知見が得られている。
有明海は、干満差が大きいため、その海洋物理構造は潮汐によって支配されている部分が大きいが、観測タワーにおいては、早津江川からの淡水流入の影響が極めて大きいことが分かってきた。特に出水の多い夏季に顕著であり、塩分と温度による成層が強化されるために貧酸素水塊の形成も認められている。貧酸素水塊の形成は、潮汐が小さくなる小潮時に低酸素水塊が進入するパターンと出水により成層が強化された後に酸素消費により貧酸素化する2つのメカニズムが知られているが、観測タワー近傍においては、後者の淡水流入の影響が大きいとおもわれる。
河川水の影響と潮汐の影響を強く受ける観測タワー付近のような場所での連続観測データの蓄積は余りない。さらにその観測データに基づく海洋物理構造の可視化はこれまで余りなされてこなかった。この点において、本研究で行った過去の連続観測データの解析は意義がある。
現在稼働中の観測タワーは、数値シミュレーションのリファレンスとして、また諫早湾潮受け堤防が開門時にその前後データを提供するものとして、存在意義は非常に高まっており、今後も精度よい観測を続けていくつもりである。また、観測データのリアルタイムな公開に向けて、現在環境を整備中である。