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 コミュニケーション能力を磨く






三浦哲彦先生
コミュニケーション能力を磨く
(株)軟弱地盤研究所所長 三浦哲彦

 平成15年8月、理工学部同窓会から頼まれて話した内容を文章にして責を塞ぎたい。

 昭和38年3月、やっと大学を卒業して九大助手となった。3年間の留年がたたって、後輩学生の土質実験指導は冷や汗の連続であった。学力挽回のため、数学の本を開き、英字新聞を契約し、国家試験を受験した。いずれも実らず失敗におわった。迷いを振り切るように大型模型実験に入れ込む毎日だった。自分に自信が持てないので、研究室学生とのコミニュケーションはいつも消化不良であった。

 30歳を前に、九州工業技術試験所に出向した。同僚が着々と研究成果をあげているのを横目

で見ながら、テーマが定まらない苦しさを味わった。3年後、年長という理由だけで労働組合委員長を引き受けさせられた。経験がなく、気弱な自分が組織を動かせるのか悩んだ。己の長所を無理に見つけ出そうとして気付いたのは、“適応能力はある”ということであった。自分の短所と長所を素直に認めてからは、肩肘張らずに人とコミュニケートできるようになった。組合の理論家副委員長、カミソリ書記長との三人四脚であったが、彼らの活動の隙間を埋めることが自分の任務と考えた。組合初のストライキが迫る中、最後の責任は組織の長が担うべしと心に決めて、11.13行動に突入した。九州で一人だけの戒告処分(昇給延伸)を受けたが後悔はなかった。

 翌年、高圧三軸試験機を得て研究テーマがやっと定まり、その嬉しさでなりふり構わず実験を行った。研究成果を持たない自分への悔しさがばねとなり、オリジナル論文が書けるようになった。学会論文集に2編が載り、運良く山口大学の助教授に任用された。36歳であった。講義前日は、しばしば半徹夜で準備をした。研究室コンパのとき、ある学生いわく、“先生の講義は何が言いたいのか分からない!”これがきっかで彼らとのコミュニケーションを改善するには、言うことに大きなブレがあってはならない、と気付いた。

 この欠点を克服するヒントを先輩から教わった。その人は徒然草を日頃から愛読し、発想の拠り所にしていたのである。それに倣って仏教入門書に目を通すようになった。講義では、自分の声が小さく発音不明瞭であることが気になり、大きな声で喋るようにしたら、話そのものが論理的になることに気がついた。くる日も来る日も学生と室内実験に明け暮れるなか、民間企業から技術相談を受けることがあったが、“大学は民間会社のためにあるのではありません”と断っていた。若気の至りであった。

 40歳前に学位を取得した。これまで通り実験屋を継続するか、少し理論を齧るか、一年余り迷った。前者で行こうと決心した上で、新たなエネルギー源を専門の異なる分野の研究者に求めた。「人にもの問うこと」の大切さを学んだのである。学生の就職斡旋には社会とのコミュニケーションが大切だと思うようになった。このため人間としての幅を広げる必要を感じ、一つの手段として、小説類を手当たり次第に読んだ。芹沢光治良、夏目漱石、日本文学全集、クローニン、Sモーム、世界文学全集、など。読書によって、人間という生き物の思考の範囲が掴めたように思った。世の中には、ABCからXYZまで色んなタイプの人間がいることを理解でき、意見を異にする人の話に心を落ち着けて耳を貸せるようになった。

 佐大に赴任したときは47歳。低平地という研究テーマに出会い、地域技術者との交流が始まった。研究会を組織するにあたって継続性を大切にするために無理はしないことにした。「3を投ずれば10返ってくる」、という産学交流のコツを会得したのもこの頃であった。同じ発想で地盤工学会としては初めての、地方における国際シンポジウムIS Kyushuを計画した。外国人参加者は得られるのか、赤字になったらどうする、という心配の声に対して、外国人は15名くればよい、赤字は百万までなら何とかする、と見えをきって実行した。ラッキー頼りではあったが、結果は成功であった。この事務局を経験して得た財産は、国際ネットワークができたこと、事務局長は主体的に組織をコントロールできるとの確信を得たこと、であった。

 学科で外国人教官を招くことになり、彼らとの付き合いが始まった。コミュニケーションの原則は、「Yes-Noを明確に言う;小さな約束も疎かにしない;平等に付合う」であった。彼らとの会話は、日本の歴史・文化の知識を蓄えておくことで楽しさ倍増となる。これは、地域外の人と付き合う場合も同じであろう。聞きかじりで学んだ佐賀の歴史の中には、葉隠れ聞き書き、佐賀んもんの三病毒、鍋島殿様の人間評、などがあった。

 50歳半ばで管理職となり、教職員とのコミュニケーションの機会が増えた。心がけたのは、「しっかり聞く;全体を見渡す;決断する」の3点であった。かつて学部・大学の将来ビジョンを描いたとき、そのほとんどは5〜7年の後に実現したという経験に照らして、「計画の無いところに実現はない」という思いを強くした。文部省相手の概算要求においては、大学間ヒエラルキーの障壁に悩まされつつも、連携大学院や国際環境特別コースが実現した。教養部廃止、学部改組、などにも取り組んだ。地方の大学が先行大学と肩を並べるには、「常にエネルギーを注入し続けること」が必要だと感じた。

 定年5年前となって、退職後の備えをはじめた。独立することを想定して技術士に挑戦し、技術者仲間の教えを受けて合格できた。佐賀では資格取得者が少ないことに気付き、技術者育成の活動を始めた。その一環として、13年にNPO法人技術交流フォーラムを立ち上げた。信条は「積極的に社会活動に参加する;倫理観を持って行動する;技術を通して地域の発展に貢献する」である。

 コミュニケーション能力を磨く、という観点から、わが半生で経験したことを述べた。卒業生の皆さんにとって、一つでもヒントになれば幸いである。最後に、座右の銘としてきた會津八一先生の「学規」を紹介して稿を終えたい。

深くこの生を愛すべし
省みて己を知るべし
学芸をもって性を養うべし
日々新面目あるべし
出典「特集:三浦哲彦教授のご退官,楠志会会報2003,楠志会,pp.4-5,2003.」
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